米式日記2012
茶釜 03.01(四) 日常だけが居座っているものが好きだ。 昔、僕がまだ高校生だったころ、凡庸な學(xué)生や身も知らないような社會(huì)人のブログを覗くのが好きでよくやっていた。 以前,我還是高中生的時(shí)候,經(jīng)常喜歡看平庸的學(xué)生和忙到連身體都不知道的社畜的博客。 そのブログに自らが干渉したりはせずに、なんとなく移ろう日常のあり方を俯瞰から追いかけるだけなのだけど、日常というものは往々にして特に起伏もなく、のっぺりと流れていくものだ。物語としては落第點(diǎn)の、つまらない映像がひたすら映る映畫を見ている気分になる。 自己不干涉那個(gè)博客,只是俯瞰流逝的日常應(yīng)有的樣子。日常往往沒有特別起伏,流暢地流動(dòng)。故事的開始,感覺就像是在看一部一味地放映著無聊影像的電影。(米說過散步時(shí)看別人陽臺(tái)) 自分でもはっきり理由はわからないが、そういうものが好きだ。よくわからない??证椁皮郡瑜Δ世碛嗓钎ⅴ螗鹰ē螗纫魳Sも好きだ。 我自己也不清楚理由,但我喜歡那樣的事物。不太明白。也許是因?yàn)橄嗨频脑?,喜歡環(huán)境音樂。 打算がないからだろうか。そのブログを書いている人はその人でしかなくて、誰かを演じているわけではない。 是因?yàn)闆]有計(jì)劃嗎。寫那個(gè)博客的人只有那個(gè)人,不像在扮演誰的角色。 なんとなく朝目が覚めて、眠い目を擦りながら、これからの一日のことやこれまでの一日のことをぼやけた輪郭のまま話せる誰かが居て、一日の終わりにそれを一緒に再確認(rèn)する誰かが居るような、當(dāng)たり前ではあるが、コンパクトに満たされた生活。 總覺得早上醒來,一邊擦著困倦的眼睛,有一邊把今天的一天和至今為止的一天的事情用模糊的輪廓說出來的人,一天結(jié)束的時(shí)候又再次確認(rèn)的人。雖然是理所當(dāng)然的,但是緊湊的滿足的生活。 思い返せば、僕はそういう日常をあまり送ってこなかったのかもしれない。羨望のようなものがあるのかもしれない。 回想起來,我可能不怎么過那樣的日常生活。也許也羨慕這樣的生活。 ここ三日間、何の予定もなかったし、どうにも気分が優(yōu)れなかったのでずっと眠っていた。三日間のうちトータル二日間は眠っていたような気もする。言い過ぎか。 這三天沒有任何安排,心情也不太好,所以一直在睡覺。三天中總共睡了兩天。會(huì)不會(huì)說得太過了? 僕は落ち込むと逆によく眠るようになるのだけど、これは悪い癖かもしれない。これのせいで生活習(xí)慣がぐちゃぐちゃになってしまう。 我難過時(shí)反而會(huì)睡得很好,這可能是個(gè)壞習(xí)慣。因?yàn)檫@個(gè),生活變得亂七八糟。 ブログを稼働させる習(xí)慣もつけたいのだけど。やっぱりすぐに忘れてしまう。 我也想養(yǎng)成啟動(dòng)博客的習(xí)慣。果然還是很快就會(huì)忘記這件事。